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楼主: 东西

每日一刀 大家欣赏

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 楼主| 发表于 2007-9-16 08:49 | 显示全部楼层

http://www.delori.net.cn/

種別 刀
国 備前
時代 室町時代後期
法量 二尺三寸強
附  
銘文 備前国住長船与三左衛門尉祐定
天文九年二月吉日


説明 室町時代の備前刀は、初期においては盛光・康光、中期は勝光・忠光、後期には与三左衛門尉祐定・五郎左衛門尉清光等に独自の作域が認められる名作があることから、二百余年のあいだ他国に抜きん出る栄光の座を保ち続け得たのであった。末備前随一の名工与三左衛門尉祐定は、永正末年から大永・享禄・天文年間にかけて、末備前の諸工の中で最も繁栄している。中国地方では、赤松・浦上・宇喜多の守護や守護代をはじめ、各武将の為にも作刀し、多くの名作を残している。


この刀は、小板目肌良く詰んだ鍛えに、地沸つき、刃文は華やかな五の目乱れ、匂口冴えて小沸よくつき、足・葉しきりに入り、地刃の冴えは見事であり、名のある戦国武将の注文打に相違なく、すべての点において、力と美の調和をさまざまと示し、末備前を代表する名工の名に相応しい優品である。
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参与人数 1参与分 +96 收起 理由
007sunny + 96

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 楼主| 发表于 2007-9-17 20:38 | 显示全部楼层
種別 笹穂槍
国 伊勢
時代 室町時代後期
法量 九寸一分強
附 総金具銀無垢小千段巻銀地毛彫太閤桐紋散し拵
有銘 古刀大鑑所載

銘文 村正

説明 初代村正は濃州赤坂兼村の子、或いは関兼春門人とも伝えられており、後に桑名に移住して千子派の祖となった名工である。その作刀には文亀から永正にかけてのものがあり、年紀のあるものは(右衛門尉村正作之・文亀元年八月日)の作品が最も古い。二代村正は永正の後半頃から天文にかけての作品があり、三代は天正頃に活躍した刀工である。作風は、ほぼ同様で匂出来の直刃に腰刃を焼いたもの、湾れに互の目の交じるものや箱乱れ刃が多く、刃文が表裏揃うことなどが村正の特徴となっている。

この槍は、小板目肌よく詰んだ鍛えに細かな地沸つき、刃文は直刃調に小湾れごころ交じえて小沸つき、僅かに小足入り、地刃ともに健全な名作であり、また一般に笹穂形槍は作品少なく、資料的にも貴重である。
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 楼主| 发表于 2007-9-18 21:57 | 显示全部楼层

http://www.djqz.cn/

種別 短刀
国 備前
時代 室町時代後期(天正・文禄~慶長)
法量 九寸五分
附  
銘文 備前国長船中川七郎衛門尉行包作
文禄五年八月吉日


説明 天正十九年八月下旬(室町時代後期)の大洪水による吉井川氾濫は備前長船刀工群に壊滅的な打撃を及ぼし難を逃れて生存した刀工は、本工を含め僅かに2,3名と伝えられている。 本作の銘にみる中川姓を名乗る刀工として与三左衛門尉祐定が名高く、嫡子で七郎左衛門尉祐定ななどの作品が現存する事から一族の刀工と推察される。

 この短刀は、地鉄小板目に地景を織り込んだ鍛えで淡く映り立ち、刃文は浅い湾れ調に互の目を交えて明るく冴え、金筋・砂流しかかるなど、末備前の一流刀工を思わせる出来を示している。加えて現存する作品の極めて少なく、備前行包の高い技倆を窺い知る一振りである。
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发表于 2007-9-19 02:41 | 显示全部楼层
楼主辛苦...
置顶好.看着方便...

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 楼主| 发表于 2007-9-19 19:51 | 显示全部楼层

http://www.cnsohot.com.cn/

呵呵
也希望大家能从中学到一点东西

種別 脇差
国 山城
時代 江戸時代初期[安土桃山時代]
法量 一尺三寸
附  
銘文 平安城藤原弘幸


説明 平安城弘幸は、堀川国広の門人で清水の姓を名乗り、初め弘幸と銘し慶長末年に丹後守を受領後、広幸と改めた。作品は刀よりも比較的脇差・短刀が多く、また同工の作で年紀の有るものは非常に少なく現存では「慶長十三年」の弘幸銘に限られており、同年八月日の脇差と短刀が各一口、更に同九年の短刀一口が確認されている。
 そして鑢目は堀川一門が大筋違であるのに対し、本工のみが切り鑢か浅い勝手下がりとなり一門中にあっては異色である。

この作品は菖蒲造りの脇差で、地鉄小板目鍛え地沸つき、刃文は直刃調に浅く湾れて、喰い違い刃、砂流し交じるなど刃中よく働き、堀川一門の特徴が良く顕れた作品で姿の良さと雅味を併せ持つ作品である
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 楼主| 发表于 2007-9-21 19:59 | 显示全部楼层
種別 刀
国 摂津
時代 江戸時代初期
法量 二尺三寸四分
附 新刀大鑑所載
銘文 井上和泉守国貞 (井上真改)
(菊紋) 寛文五年八月日


説明 井上真改は、初代和泉守国貞の次男として寛永七年(1630)に生まれ、初銘は父と同じ国貞と銘し、承応元年(1652)に和泉守を受領、そして、万治四年には朝廷より十六葉の菊花紋を茎に切ることを許され、初め和泉守国貞、寛文元年より井上和泉守国貞と銘し、寛文十二年以降、井上真改と改めた。
本工は世に大坂正宗と俗称されているほど、父に優る名工で、精良な地鉄、沸・匂深く明るく冴えた刃文は、新刀屈指の名人と称される所以と云えよう。


本作は、小板目よく詰んだ鍛えに地沸よくつき、刃文は浅く小湾れ調に小互の目交じり、掃掛、小足入り、地刃ともに明るく冴えた本工の典型作で、同作中の優品である。
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 楼主| 发表于 2007-9-21 21:11 | 显示全部楼层
各位不好意思,昨天晚上由于有事所以没有上网,也没更新,今天给大家伙补上:)

種別 刀
国 摂津
時代 江戸時代初期
法量 二尺三寸
附 越前守助廣大鑑所載
銘文 表 越前守助廣
裏 雙

説明 越前守助廣は、寛永十四年に摂州打出村(現在の芦屋市)に生まれ、通称を甚之丞といい、大坂に出て初代助廣の門に学び、明暦元年、師の没後二代目を継いだ。明暦三年には二十二歳の若さで越前守を受領し、寛文七年大坂城代青山因幡守宗俊に抱えられ、濤乱刃の創始者として、調和のとれた姿格好のよさに加えて、地刃の冴えとその格調の高さは、井上真改と共に大坂新刀の双璧と称えられた新刀屈指の名工である。父そぼろ助広が没した寛文三年から後、同六年までは大互の目乱れを盛んに焼いて、箱がかった乱れがまま交じることがあり、それらには多く「雙」の字を添えている。 
本作は寛文六年頃の作品で、小板目肌よく詰んだ鍛えに地沸つき、刃文は大互の目乱れに丁子、玉焼交じり、匂口明るく小沸つき、刃中に細かな砂流しかかる。 地刃ともに本工の高度な技量と特色を存分に示した名作である。 【新刀最上作】
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 楼主| 发表于 2007-9-22 21:23 | 显示全部楼层

http://www.funsn.com.cn/

種別 薙刀
国 摂津
時代 江戸時代初期
法量 一尺五寸四分
附  
銘文 越前守助廣
      
説明 越前守助廣は、初代助廣の大坂移住直後の子で、少年時代から父である初代助廣に作刀技術を学び、二十二歳の若さで越前守を受領し濤乱刃の創始者として、天下に名を挙げた名人である。
また、そのよく調和のとれた姿格好のよさに加えて、地刃の冴えと格調の高さは、井上真改と共に大坂新刀の双璧と讃えられている。

この薙刀は、小板目良く詰んだ潤いある肌に濤乱風の大互の目を焼き、刃縁深く清新な小沸むらなくついて、そのよく冴えた沸の美しさは、まさに名人たる手腕を発揮しており、また本工の薙刀の作例は極めて稀で現存するものは二振り(2004.6現在)のみである。尚本作は銘・作風からみて寛文三年から五年のかけての作品である。
                           
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 楼主| 发表于 2007-9-23 19:54 | 显示全部楼层
種別 脇差
国 摂津
時代 江戸時代初期
法量 一尺四寸三分
附  
銘文 河内守藤原国助 [初代]


説明 初代国助は、名を小林甚兵衛、伊勢国神戸の近江石堂系に属する刀工で、初めは伊勢亀山城主・関長門守の抱え工であったが京に上り、堀川国廣最晩年の門人のひとりとなり、国廣没後は兄弟子の越後守国儔に学び寛永二年(1625)には河内守を受領、寛永七年頃大坂に移り、和泉守国貞と共に大坂新刀の創始者となった名工である。その作風は板目鍛えに地沸がついて、地景の入った堀川風のものと、小板目肌良く詰み細かな地沸がついた大坂地鉄のものとがあり、刃文は匂深く小沸のよくついた湾れ互の目、互の目丁子に足入りなどがある。 
この脇差は身幅広く重ねの厚い豪壮な菖蒲造りで洗練された良質の玉鋼を大坂新刀特有の綺麗な小板目肌に鍛え地沸つき、刃文は、湾れ互の目乱れ、匂深く小沸よくつき、足・葉入り初代国助の高度な技量を存分に示した優品である。
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 楼主| 发表于 2007-9-24 21:08 | 显示全部楼层
種別 刀
国 摂津
時代 江戸時代初期
法量 二尺三寸八分
附  
銘文 越後守包貞
八幡大菩薩


説明 二代越後守包貞は、初代越後守包貞門人で、寛文九年(1669)頃にその跡目を継ぎ、初め越後守包貞を名乗っていたが、初代包貞の子岩松が成人すると、越後守包貞の名を岩松に譲り、自らは坂倉言之進照包と改銘した。即ち初代包貞が死去した際、本来ならば初代の子岩松が二代を継ぐべきであったが、まだ幼少のため、その成人までの間は照包が二代越後守包貞を名乗って鍛刀したのである。 包貞から照包に改銘した時期は(表 坂倉言之進照包・越後守包貞隠居 裏 延宝八年二月吉日)と銘した作が現存する事から、延宝八年頃であろうと思われる。

 本作は、小板目肌よく詰んだ精良な鍛えに地沸つき、刃文は沸、匂深い変化のある互の目乱れに足入り、細かな砂流しかかり、地刃ともに明るく冴えた作品で、大坂新刀を代表する名匠としての実力を存分に発揮した一振りである。
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 楼主| 发表于 2007-9-25 19:39 | 显示全部楼层
種別 刀
国 山城
時代 江戸時代初期
法量 二尺三寸五分
附  
銘文 (菊紋) 越前守源信吉


説明 初代信吉は三品系の鍛冶で、名を高井金三郎といい、信濃守を受領して、亰の油小路に住し鍛刀した刀工で、沸、匂の深い直刃や、大互の目乱を焼いている。越前守信吉は、初代信濃守信吉の三男で銘を「越前守源信吉」「入道源来信吉」「高井越前守源来信吉」などと切り、その作風は初代と同じく沸本位の互の目乱れを焼くが、井上真改に迫るような直刃の作もあり、晩年は大坂に移住して鍛刀している。

 弟の阿波守信吉は、銘を高井市之丞と称し、阿波守を受領し、兄の越前守信吉と共に大坂で鍛刀した鍛冶で、二代目は、相模守を受領した大坂鍛冶である。

 本作は、小板目肌詰んだ鍛えに細かな地沸つき、刃文は大互の目乱れに湾れ交じり、匂深く沸よくつき、足入り、匂口明るく冴え、本工の高度な技量を余すところ無く発揮した優品の一振りである。
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发表于 2007-9-26 11:32 | 显示全部楼层
嗯。。。 还剩6把刀~~~

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 楼主| 发表于 2007-9-26 15:17 | 显示全部楼层

http://www.sisong.net.cn/

嘿嘿
这个贴完了可以贴其他的

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 楼主| 发表于 2007-9-26 21:54 | 显示全部楼层
種別 刀
国 備中国
時代 江戸時代初期
法量 二尺四寸
附 【日本刀随感所載】 本阿弥光遜先生御鞘書 本阿弥光博先生旧蔵刀


銘文
備中国水田住大月与五国重作


説明 備中国水田派は、古青江為次の末流達が後月郡荏原村や砦部郡松山などの地で鍛刀し、特に戦国時代末期から元禄時代に亘っては、六十余名の同銘鍛冶を出して非常に繁栄した一派である。この一派は新刀期に入ると、与五郎国重を代表とする大月派と、為家を代表とする河野派の二代派閥に分けられる。大月与五郎国重は三郎兵衛国重の子で、慶長から寛永頃にかけて活躍し、新刀水田派では最も上手な刀工として著名である。作風は慶長新刀姿に沸本位の大乱や湾れ乱に沸が一面に絡みつき、まことに覇気溢れた作風を示している。

本作は小杢目肌よくつんだ精美な鍛えに地沸よくつき、刃文は大乱れ、沸匂深く砂流し頻りにかかり、帽子は一枚、火炎風に盛んに掃きかけ、本工の高度な技量と技を存分に示した最高傑作の一振りである。 
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 楼主| 发表于 2007-9-27 19:28 | 显示全部楼层

http://www.ahehome.cn/

出差4天
今天发四支:)

種別 短刀 [寸延]
国 安芸
時代 江戸時代初期 
法量 一尺一寸一分
附 黒呂色鞘鶴丸紋金具一作合口拵 本阿弥日洲先生御鞘書
銘文 播磨守輝広作 


説明 二代輝廣は尾張国蟹江刑部の子で、名を甚八、初銘を兼久、初代肥後守輝廣の門人で(のち娘婿)当時清洲二十万石の領主であった福島正則が慶長五年(1600)芸州廣島五十万石の城主として転封した際、初代輝廣とともに廣島に移住、二代目を継ぎ、福島正則の斡旋で播磨守を受領し、初め福島家、のち新藩主浅野家に仕えた名工である。作品は慶長十五年から寛永二十年までのものが残されており、慶長十五年の脇差にはすでに播磨守と銘しているので、慶長十五年、或いはそれ以前に播磨守を受領した事は明らかである。
本作はよく練れた小板目鍛えに精良な地沸つき、刃文は湾れ乱れに小沸つき、地刃共に明るく、同作中でも一際優れた出来栄えを示した寛永頃の輝広の優品である。
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 楼主| 发表于 2007-9-27 19:30 | 显示全部楼层
種別 刀
国 武蔵国
時代 江戸時代初期
法量 二尺三寸二分
附  
銘文 大和守安定


説明 大和守安定は生国越前で、越前下坂派の出身と古来より伝えられてきたが、近年の研究で紀州石堂派の出身であることが有力になった。その作風は湾れを基調として互の目を交じえて沸づき砂流しかかるもので、虎徹に近い作風をみせているが、虎徹に比しては湾れが目立つところが見処である。安定の刀は切れ味が優れている事で知られており、幕末頃人気が集中し、新撰組一番隊隊長・沖田総司、同じく隊士・大石鍬次郎の佩刀であった事も知られている。本工の作には山野加右衛門、山野勘十郎などの試し切りの金象嵌が施された作品も多く、その切れ味の良さを証明している。 

 本作は小板目肌よく詰んだ精良な鍛えに地沸つき、刃文は互の目乱れに足よく入り、細かな砂流し交じり、沸匂深く、地刃ともに明るく冴えた本工傑出の一振りである。   【大業物】

[ 本帖最后由 东西 于 2007-9-27 19:32 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2007-9-27 19:35 | 显示全部楼层
種別 刀
国 武蔵
時代 江戸時代初期
法量 二尺二寸七分
附 鑑刀日々抄所載  日本刀随感所載  
刀剣美術所載(日本美術刀剣保存協会本部定例鑑賞会・出品刀)

銘文 表 武州住石堂秦東連
裏 寛文六年二月日


説明 江戸石堂派は、石堂是一と対馬守常光の二流派に分けられ、共に江戸に住して匂本位の備前一文字の作風を鍛え、大いに繁栄した一派である。石堂派の名称は、近江国蒲生郡石塔村の石塔寺近くに住したことから起こったもので、福岡一文字派の系統を引くといわれ、助長・助吉・助友などに江州蒲生住と銘を切ったものがある。秦東連は江戸石堂派の刀工で名を八左衛門尉守久、本国美濃。後に入道し銘を東連と改める。慶安元年より承応三年までの年紀作がある。

 本作は、江戸石堂派の中では経眼少ない初代守久入
道東連の作で、年紀の上から見て晩年作と思われる。小板目肌細かに詰んだ精良な鍛えに乱れ映り立ち、刃文は華やかな丁子乱れ、逆ごころあり、同作中特に出来の優れた一振りである。
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 楼主| 发表于 2007-9-27 19:36 | 显示全部楼层
種別 脇差
国 武蔵
時代 江戸時代後期
法量 一尺六寸
附  
銘文 大慶直胤(花押) (彫)日・月
乳割土壇拂 吉田文平 文化五年中秋上旬


説明 大慶直胤は本名を荘司蓑兵衛、安永七年(1778)出羽国山形に生まれ、寛政十年頃江戸に出て同郷の先輩である水心子正秀の門人となった。さらに正秀の世話で館林藩主・秋元家に正秀と共に仕え、文政五年頃に筑前大掾、嘉永元年には美濃介を受領した江戸新々刀を代表する巨匠である。作風は美濃伝の尖り刃の交じるもの、大和伝の柾目鍛えの直刃、或いは山城伝(来国俊・来国光)写しなどもあるが、特に備前伝、相州伝の作に傑出した名作を残している。
←太陽と月を表現した彫

本作は身幅広く、がっしりとした造り込みの脇差で、柾目肌鍛えに地沸つき、刃文は沸、匂深い中直刃
に小足よく入り、帽子は頻りに掃きかけ、大和国保昌貞宗の柾目鍛えを見事に再現した優品である。
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 楼主| 发表于 2007-9-27 19:38 | 显示全部楼层
種別 刀
国 備前→薩摩→備前
時代 江戸時代後期
法量 二尺三寸二分
附 日本刀随感所載 岡山の優品展所載
銘文 表 備前国祐平 於薩陽士奥元平宅造之
  
裏 天明四年甲辰二月日


説明 伊勢守祐平は、宝暦五年(一七五五)七郎右衛門祐定の子として生まれ、俗名を覚冶といい、初銘は祐定と切る。寛政二年(一七九〇)伊勢守を受領、友成五十五代孫を名乗る。天明四年(一七八四・三十歳)に薩摩の大和守元平に入門し、祐平と銘を改めている。



 本作は身幅やや広く、中鋒延びごころとなり、鍛えは板目肌よく詰み、地沸厚くつき、地景入り、刃文は互の目乱れに小湾れ交じり、足太く入り、沸厚くつき、砂流しかかり、腰元あたりは直刃調となる。
 この刀は、奥大和守元平へ入門直後の作で、「於薩陽士奥元平宅造之」の添銘は資料的に貴重であり、相州伝をよくこなした同作中の傑作である。指表に{於薩陽士奥元平宅造之}と切り、自身の銘を指裏に切っているのは、師匠に対し敬意を表しての事だと思われる。  
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该用户从未签到

发表于 2007-9-29 21:49 | 显示全部楼层

好......

太美了....................
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